マインドフルネスは何故抑うつに効くのか
マインドフルネスにはうつやストレスの緩和、
集中力やモチベーションアップなど、様々な効果が臨床的に示されてきました。
今回は何故効くのか、そのメカニズムについて興味があったので、
「マインドフルネスと抑うつとの関連 ―自己制御の働きに着目して―」 宇佐美 麗・田上 恭子(2012年)という論文を参考に記事を執筆したいと思います。
お恥ずかしい話ですが、心理学初学者の私は学術的な論文に触れたことがなく、
出身である法学部は卒論も不要だったので、
論文を読んだことも書いたこともないという状態でした。
しかし何事も皆初学者はゼロからのスタートです。
以前の記事でも書かせていただいたように、「やり始める」ことが一番大切で、
まずは読んでみようという気持ちを自分に奮い立たせ今回の執筆に至りました。
さて話は戻りますが、この論文ではマインドフルネスが何故抑うつに効果があるのかについて論じられています。
マインドフルネスと抑うつとの間には介入研究や、
Mindful Attention AwarenessScale(以下、MAAS) といった尺度を用いた調査研究から効果が実証されていましたが、
なぜその効果が生じるかという点に関しては、統一した説明がなかったため、
この論文ではそのメカニズムについて検証をしています。
筆者は以前から研究が増加していた
「マインドフルネスが自己制御過程にどのように関連しているのか」という視点から、
その中でも自己制御に関わる概念、エフォートフル・コントロール(以下EC)に着目し
マインドフルネスとの関連性について調べました。
ECとはRothbart, Ahadi, & Evans(2000) が提唱した概念で、
「実行注意の効率を表す概念であり、主要な反応に対してストループ作業における認知的葛藤のように副次的な反応を行うことを抑制する能力」と言われています。
優勢な反応を抑制して優勢ではない反応を遂行する過程にかかわる心理特性、
もっと簡単に言えば、エフォートフル(努力をいっぱい)してコントロール(制御)する能力です。
マインドフルネスがECに正の影響を及ぼし、ECが抑うつに負の影響を及ぼす。
つまり マインドフルネス → EC→ 抑うつ改善 という関連です。
この研究では大学生266名を対象にBrown & Ryan(2003) によるMAASを日本語に翻訳した質問紙を用いて、マインドフルネス、EC、抑うつとの関係を検証しています。
細かい検証手順や項目は省きますが、結果から言うと、
MAASの項目分析も因子的妥当性が認められ、相関分析でも、
マインドフルネス、EC、抑うつの関連はそれぞれ高いことが示されました。
特にこの研究では、実行注意に関する自己制御能力のうち、
行動抑制の制御がマインドフルネスの抑うつへの効果に関連している可能性が示唆されたとあります。
自己に能動的な注意を向けることで気づきと注意が一致し、ECに反映され適当な判断を行うことで欲求のままに行動しないことが「行動抑制の制御」にあたるようです。
これらの論拠から「マインドフルネスは行動抑制の制御により抑うつに効果がある」という結論が導き出されます。
そして私が特に興味を持ったのは以下の結論部分でした。
・自己への気づきと注意が一致するマインドフルな状態が実行効率を促進することが示された
・自身の感情が動機となっている状況に不適当な行動を抑制できる能力が促進されるためである
・マインドフルネスな状態において「自らの欲求に基づく行動を抑える」という自己制御が働くことが抑うつ低減に結びつくということが本研究から示唆される
マインドフルネスは「気づきを得る」ことばかりが着目されがちですが、
その気づきを得るための「マインドフルネスな状態」により自己制御が促進される機能があることは新たな発見でした。
少し長いですが下記の説明も非常に興味深かったので引用させていただきます。
『行動抑制の制御という因子は、本来マインドフルネス理論において強調されている「距離を置く」ということばと結びつきが強い可能性が考えられる。
マインドフルネスになるために必要な「距離を置くこと」は、先述したように、主観的な思考から遠ざかり客観的視点をもつことで自身への気づきを高めさせることを表す。
マインドフルネスで行われる「距離を置くこと」において、冷静にその時の自己の状況を見つめられるという点が、行動抑制の制御をもたらすのではないだろうか。』
この考察はまさに私がマインドフルネス瞑想を実践している際に感じていることで、非常に腑に落ちました。
マインドフルネス瞑想では「○○な自分に気づく」というように、自分と距離を取って自分を観察しています。
その場で深く考え込み、踏み込んで判断をしてしまうのは自分との距離が上手く取れていない状態です。
冷静に自分との距離を取り、今起きていることに注意を向けられる状態、つまりマインドフルネスな状態は自己制御ができる状態であると言えます。
その結果、特に何か気づきが得られなかったとしても、その状態になることにも意味があると、この論文を読んで「気づき」を得たことは収穫でした。
普段読書もあまりしない私が初めて学術的な論文を読んでかなり骨が折れましたが、
自分なりに解釈をし、記事として形にできたことは良い経験になったと思います。
他にも興味深い論文があれば記事にしたいと思います。
最後に少しだけ宣伝させてください。
ポルトクオーレでは10月27日(水)にマインドフルネスセミナーを開催いたします。
今回は注意・言葉・フレームという3つの視点からACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)に関連したマインドフルネスの講義をしていただきます。
マインドフルネス、ACTはそれぞれ第4回公認心理師試験にも出題されており、
公認心理師を目指す方にとっても是非参加していただきたいセミナーとなっています。
また、OBPアカデミアでは毎週月曜日にマインドフルネスセミナーを開催しています。
これまでご紹介した様々なワークを通して実践的なマインドフルネス瞑想が行えます。
ご興味のある方は是非お申し込みください。私も参加しております。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「夜と霧」を読んで
ヴィクトール・エミール・フランクルの「夜と霧」を読みました。
本書はユダヤ人の精神科医・心理学者であるフランクルが、
ナチスの強制収容所での経験を心理学的な視点から著した本です。
また、以前からポルトクオーレの喜田代表がオススメしていて、
会員の方々は名著解説動画もご覧になったかと思われます。
私も心理学の世界に入ったことですし、
何か本でも読もうと思いこの本に手を伸ばしました。
読み始めていくと、目をそむけたくなる惨状が語られていました。
私もナチスが行ってきたユダヤ人に対する迫害、ホロコーストについては歴史で習っていましたが、
やはり実体験で事細かに記述された収容所での惨たらしい扱いを見ているとこちらまで心が滅入って、
何度も途中で読むのをやめてしまいました。
私は元々そういった凄惨な内容のものを読むと必要以上に感情が入ってしまう性格で、
例えば公認心理師試験の事例問題でも、虐待、いじめ、過労など、
被害者が酷い目に遭うケースの文章を読んでいると一気に気落ちしてしまいます。
なので、こんなことを書くと読みたくなくなるかもしれませんが、
本書を読み進めるのに相当精神をすり減らしたことを記憶しています。
(他の読者の感想ではあまり見かけないので、私の精神が弱いだけかもしれません)
今回伝えたいのは強制収容所での惨状ではないので、
私が特に関心を寄せた筆者の心理学的な考察について3つ、挙げたいと思います。
1つ目はアパシー(感情の喪失)についてです。
強制収容所に入れられると人はまずショックを受け、第一段階として苦悩に満ちた情動を経験するそうです。
それが第二段階になると、内面がじわじわと死んでいき、感情の消滅段階へと移行するようです。
例えば、殴られることも何も感じなくなったり、まだ温かい死体に群がって、
上着や靴を取るような心無い行動に出ることもあったようです。
しかしこれは多くの人々にとって精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだったと言います。
ただひたすら生命を維持することに集中した結果、感情が消滅、あるいは鈍麻していく。
人間が社会性を失った動物のようになっていく様子にとても胸が痛みました。
2つ目は精神の自由についてです。
フランクルは、人の魂は結局、環境によって支配されてしまうのかと問いかけます。
しかしそこには異議も反論もあるというのです。
たとえ強制収容所のような苦しい環境においても、感情の消失を克服し、
あるいは感情の暴走を抑え、自分を見失わなかった人間は確かにいたと。
収容所の点呼場や居住棟のあいだで通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、
なけなしのパンを譲っていた人々がいて、そんな人はたとえほんの一握りだろうと、存在したのだと。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、
たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えないのだとフランクルは強く説きます。
自分がどのような精神的存在になるかは内心の決断の結果であり、
典型的な「被収容者」になるか、それでもなお人間として踏みとどまり、己の尊厳を守る人間になるかは自分自身が決めることだと言うのです。
とても厳しいように思えますが、いかなる状況下でも私たちにはどのような態度を取るかを決められる自由がある。
これは辛い時ほど希望を見出せる考え方なのではないでしょうか。
3つ目は生きる希望についてです。
収容所では1944年のクリスマスから年明けにかけて死亡者が急増したとあります。
この時期に特に疫病が蔓延したとか、大きな災害があったわけではありません。
その理由は「クリスマスにはきっと解放されるだろう」という淡い期待を抱き、
それを待ち望んでいた人々が、現実にはその日になっても解放されず、
絶望に暮れ、精神的にも肉体的にも衰弱し、死んでしまったということです。
彼らはクリスマスの解放を生きる希望としていました。
それはイメージが明確な時には効果があるかもしれませんが、
いざ現実にその可能性が薄れ、実現不可能になると途端に拠り所を無くし、
生きる意味を失ってしまうのです。
では何を生きる希望とすればよいのか?
その答えは次の一説に表されています。
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、
むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。」
引用:夜と霧 池田香代子 (翻訳)
これは人生に何を期待するかではなく、人生が私たちに何を期待しているか、と言う180度方向転換した考え方です。
私たちは人生に何の意味があるのだろうと問いかけがちです。
そうではなくてむしろ人生が私たちにどうするのかと期待し、問うてきているのだと。
フランクルはそう言います。
人生は私たちに様々な問いを投げかけてきます。
その問いは人によって異なり、瞬間ごとに変化する具体的なものです。
だから人生にどんな意味があるのかを一般論で答えることはできません。
私たちは人生からの具体的な問いに対して、考え込んだり口先で答えるのではなく、
具体的な行動で答えていくのだと言います。
生きるということは自分に課せられた責務であり、それを全うすることだと。
苦しみという課題が与えられているなら、それを運命と受け入れる。
苦しむことは何かを成し遂げることだと。
その苦しみは誰も身代わりになれない、二つとない何かを成し遂げられるたった一度の可能性なのだと。
現実離れしているかのように思われるこの考え方は、
実際に生き延びる見込みが皆無だった作者に残された、
たった一つ残された頼みの綱だったといいます。
以上、3つの心理学的な考察について感想を述べさせていただきました。
「夜と霧」には他にも感動的なエピソードや深い心理学的考察が含まれています。
きっとあなたの人生に影響を与える名著だということを保証します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
マインドフルネスセミナー(歩く瞑想編)
マインドフルネスセミナーを受講した感想について書いて行こうと思います。
今回は「歩く瞑想」です。
このワークも最初に名前を聞いた時に驚きました。
どうしても瞑想は座ってするもの、という先入観があったからです。
以前の記事でもご紹介した「食べる瞑想」
でも感じたことですが、マインドフルネス瞑想の形式に囚われない点が衝撃的でした。
私にとって「歩行」という行為は単なる移動手段でしかなく、
日常的に散歩をする習慣もなかったためか、
歩くことそれ自体に意識を向けるのは不思議な感じがしました。
このワークのコツは「足の裏」を意識することです。
足裏に感じる床の感覚、温度、身体の重さなどを意識的に感じるようにします。
また、その時の思考、感情なども気づきを得られるポイントです。
オンラインセミナーですので、歩く場所は部屋の中です。
私は狭い部屋の中の僅かなスペースを集中して歩き続けました。
フローリングとマットの部分を行ったり来たりして、
その瞬間瞬間の足裏の感覚に意識を集中しました。
床の材質の違いによって、温度の変化や、
つるつるした感触、ふわっとした感触を感じることができました。
至極当たり前のことを言っているようですが、
意識の有無で実際に感じられるものは文字で表わす以上の差があります。
しかし私がこのワークで一番感じたのは温度でも感触でもありませんでした。
今回のワークは私の部屋が狭いということもあり、
移動距離が限られているので、自然と歩くスピードはゆっくりになりました。
それがかえって身体の重心を不安定にさせ、エネルギーを消費し、
ワークをしてる最中に明らかに足に疲労が溜まっていたのを感じました。
コロナの影響でジムを休会していて、運動不足の影響もあってか、
歩いているとすぐに疲れる自分に気がつきました。
最初のうちは足裏の感覚を研ぎ澄まし、集中していましたが、
途中からバテて「疲れたな、早く終わらないかな」と思うようになっていました。
さぞかしだらしない奴だと思う方もいるかもしれませんが、
重要なのは「そう思っている自分に気づく」ということなのです。
何も床の温度や感触にだけ気づくことが歩く瞑想ではありません。
そのワークを実践して何に気づきを得るかは人それぞれです。
そして得られる気づきは必ずしもポジティブなものとは限りません。
やってみて自分のマイナス面やマイナスの感情に気づく時だってあります。
そこで得られた気づきをどう活かすかも自分次第、
もしネガティブな気づきだとしても、それは無駄ではないと思うのです。
現実が決していいことばかりではないように、
「今」に注意を向けるというのはそういうことではないでしょうか。
OBPアカデミアのマインドフルネスセミナーは他にも変わった瞑想でマインドフルネスを学べます。
ご興味がある方は是非参加してみてください。
下記URLから「マインドフルネス」で検索すれば現在実施中のセミナーが見つかります。
https://obp-ac.osaka/event.html
また、9月13日からは単発の講座、マインドフルネス入門も実施されますので、
どんなものか試しにやってみようかなと思う方は是非ご参加ください。
ポルトクオーレ喜田代表監修、講師は渡辺信一先生、池田真基先生です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
池袋暴走事故の第一審判決を受けて
2019年4月19日に東京都豊島区東池袋四丁目で痛ましい交通事故が起きました。
加害者の車が暴走し、母子2人が死亡、
同乗していた加害者の妻を含む9人が負傷した凄惨な事故です。
私も当時このニュースに非常に衝撃を受け、個人的に関心を寄せており、
自身でも池袋で実施された厳罰を望む署名運動に参加しました。
また、法学部出身の人間として裁判の行方にも注目していました。
裁判では、検察は事故の原因が被告人のブレーキとアクセルの踏み間違えだとして、
過失運転致死傷罪の上限である禁錮7年を求刑したのに対し、
加害者の飯塚被告人とその弁護士は一貫して車の異常による無罪を主張。
有罪か無罪かを争うこの裁判の争点は過失の有無、
つまり飯塚被告人の車に異常が認められるかどうかという点でした。
検察は事故車両の検証、ドライブレコーダーの記録、トヨタ技術者の証言など、
様々な視点から過失を立証する客観的な証拠を挙げていきましたが、
それでも飯塚被告人は依然として過失を認めず、
あくまで車の異常による無罪を主張しており、
被害者遺族の松永さんもカメラの前で憤りを隠せなかったのが記憶に残っています。
もちろん無罪を主張することは被告人の当然の権利であり、
何人たりとも侵されてはいけないものですが、
一般的な感覚から言えば、どんな証拠を挙げられても、
「私は悪くない」と言っているのと同じで、
全く反省していないと映っても仕方がないのではないでしょうか。
そして2021年9月2日、その第一審判決が下されました。
判決は、禁錮5年の実刑判決。
検察の求刑よりも2年軽い判決となりました。
この判決を軽いと見るか重いと見るかは人それぞれですが、
私は無罪や執行猶予付きの判決が出ずにほっとしたというのが第一印象です。
「疑わしきは被告人の利益に」という法諺(法律に関する格言)がある通り、
裁判官が「車の異常がないこと」を信じるに足る十分な証拠がなければ、
無罪判決が出てもおかしくない裁判だったからです。
「ないこと」を証明するのは極めて難しいことです。
試験問題でも含みを持たせた選択肢の多くが正解となるのは、
出題者が「ないこと」を証明するのがとても大変だからです。
裁判は加害者も被害者も心身ともに疲弊します。
ポルトクオーレの講座「基礎心理学①」のストレス領域でも学びましたが、
ホームズとレイの社会的再適応評定尺度(ストレスの度合いを測る表)の中で、
「配偶者の死」が第1位、「家族や近親者の死」が第5位、
加害者側は「刑務所などへの収容」が第4位のライフイベントとなっています。
松永さんはご自身のブログでも、
「一審の判決が出たら、もう辞めにしませんか。
こんな何も生み出さない無益な争い、もう辞めませんか。」
引用:飯塚幸三被告人へ | 池袋暴走死傷事故 遺族のブログ
と心の声を語っています。
ただでさえ妻と娘を亡くされ、過剰なストレスを抱える中、
裁判でも疲弊され、松永さんのストレスは想像を絶するものだと思います。
このまま控訴されず、判決が確定されること祈ります。
そして、二度とこのような事故が起こらない世の中になってほしいと願っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
クレペリンの作業興奮
前回の記事(こちら)を投稿したところ、
ポルトクオーレの喜田代表から、
心理学ではクレペリンの作業興奮という心理作用があると教わり、
興味を持ちましたので補足として記事にしたいと思います。
エミール・クレペリンはドイツの医学者、精神科医で、
内田クレペリン精神検査でも有名なあのクレペリンです。
内田クレペリン精神検査は性格検査・職業適性検査の一種で、
クレペリンの作業曲線を元に、内田勇三郎らが開発したものです。
実際にクレペリンと内田の二人が協力して開発したものではないので、
もしも公認心理師試験で、
「この検査は内田勇三郎とクレペリンが共同制作した」と出題されたら×です。
少し話が逸れましたが、今回はクレペリンの研究が元となっている「作業興奮」について簡単に解説したいと思います。
前回の記事でも似たような内容を書きましたが、
人には一旦行動を始めるとやる気が出て、自然と継続できてしまうことがあります。
この心理現象を「作業興奮」と呼びます。
では作業興奮はどのように引き起こされるのでしょうか?
まず、作業興奮状態となるにはやる気を出さなければなりません。
やる気はドーパミンという神経伝達物質によってもたらされています。
ドーパミンは脳の側坐核というところから分泌されており、
側坐核は刺激されないとドーパミンを出してくれません。
では、側坐核を刺激する最も簡単な方法はと言うと、
それは「手足を動かすこと」です。
手足を動かすこと、つまり行動することによってドーパミンが分泌されるのです。
例えば、スポーツ選手がウォーミングアップでやる気が出てくるのも、
この作業興奮状態を利用したものだと言われています。
なので、頭の中で「今日はこれをやろう、あれをやろう」と強く念じるよりも、
机に向かい、ペンを持ち本のページをめくる方がドーパミンは分泌されます。
だからこそ、前回記事のノルマのハードルを下げてまず行動に移すことは、
作業興奮の点から見ても非常に理にかなっていたのです。
自分の人生を思い返してみても、ベットの中で「勉強しなきゃなぁ…」と思い、
そのまま何もせずに一日が終わっていたことは多々ありました。
確かに私は人より意志が弱いと当時から自覚していましたが、
この理論を知っていればもっと勉強できていたのではないかと後悔が絶えません。
今は「自分は意志が弱いから…」と、自分を責めるのではなく、
むしろ意志が弱いからこそ、やる気を出すテクニックを使ってみようと、
生産的に考えるようになりました。
このように心理学は専門家でなくても、
身近な生活の中にも見つけられる非常に面白い学問です。
作業興奮を利用しなくとも楽しく学んでいけたらと思っております。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
モチベーションの保ち方
皆様、お盆が終わりいかがお過ごしでしょうか。
2021年公認心理師試験まであと一ヶ月となりました。
モチベーションを保ち続けていますでしょうか?
どんな目標であってもモチベーションを保ち続けるのは難しいことです。
真面目な方であればあるほど一日のノルマを膨大にして、
ストイックに頑張ろうとします。
もちろん、そのまま継続して多くのノルマをこなして行ければ
それに越したことはありません。
しかし、人間必ずしも365日ずっと頑張れるわけではありません。
やる気が出ない日、仕事で忙しい日、体調が悪い日、
人によって様々なご事情があると思います。
もしノルマを達成できなかった日があると、
「甘えてしまった、自分はダメな人間だ」と自分を追い込んでしまうこともあります。
そして更にやる気がなくなり、どんどん悪循環に陥ってしまいます。
私も大学受験の際にはそのような負のスパイラルに陥ってしまいました。
別の資格試験の時も同じような考えで、中々成果を出すことができませんでした。
それから数年後、Youtubeを見ていて、ある新しい考え方に出会いました。
それは、一日のノルマを めちゃくちゃ少なくする という考え方です。
「え、試験日も近いのに何を言ってるんだ」
「勉強時間が少なくなって、不合格になってしまうじゃないか」
「自分を甘やかして楽をしたいだけではないのか」
そう思われる方もいると思います。
しかしこれは「継続」に関して、かなり効果的だと思い、
私自身もこの考え方で今現在モチベーション維持に役立っていますので、
ブログ読者の皆様にもご紹介させていただきます。
例えば「1日参考書を10ページ読む」だったら、
やる気と時間が無い日は中々達成できないかもしれません。
それがもし「1日参考書を1行読む」だったら多少やる気がなくても、
忙しい日だったとしてもとりあえず達成はできそうな気がします。
でもそんな小さいノルマで、本当に目標が達成できるのか、そう考えると思います。
仮に参考書を1行読んでノルマを達成したとしましょう。
その時、どう思うでしょうか?
少しやる気があれば、
「物足りない」
「これで終わるのは勿体ない」
「せっかく参考書を開いたのだからもっと勉強したい」
と思うのではないでしょうか?
ここがこの考え方の肝です。
何かをやり始める時、一番大変なのは「着手」です。
自転車は漕ぎはじめが一番エネルギーを使います。
しかし一度漕ぎ始めれば後は転がるように、
それほど力を入れなくてもすいすいと進むことができます。
勉強も似たようなところがあります。
ノルマ達成後に更に勉強すれば「頑張ってる自分えらい!」と思えるようになります。
そう単純ではない人も、ノルマ+αが出来ている事実を認識するはずです。
ノルマ達成後というのは、言ってみればボーナスステージなわけです。
強制ではなく、やりたい分だけレベルアップが出来る時間なのです。
それが好循環を生み、上昇気流となり、
気付けばとても高い目標を達成できるレベルにまで到達できます。
そして、もし何かの原因でノルマ分しか達成できなかったとしても、
最低限をこなせた自分に満足ができるはずです
たとえ小さなノルマでも、長い目で見れば0と1には程遠い違いがあります。
あと1ヶ月だとしてもそこには大きな差が生まれます。
もし勉強が辛くなってしまった時、この考え方が何かの助けになれば幸いです。
私も自分に小さなノルマを課しつつ、
今後も心理学の勉強を進めていきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小田急線車内切りつけ事件
恐ろしい事件が起こりました。
2021年8月6日、小田急線車内で、
男が刃物を振り回して乗客を切りつけ、10人が怪我をした事件です。
幸いにも亡くなった方はいないようですが、
既に複数の被害者が、人混みへの恐怖や「電車の利用ができない」など、
精神的な被害を訴えているそうです。
このニュースを聞いて、最近心理学を勉強している私は、
PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまうのではないかと、心配しました。
PTSDとは…
死の危険に直面した後、その体験の記憶が自分の意志とは関係なく
フラッシュバックのように思い出されたり、悪夢に見たりすることが続き、
不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態。
出典:PTSD|こころの病気を知る|メンタルヘルス|厚生労働省
ポルトクオーレの公認心理師・臨床心理士対策講座でもこの病気を扱っていたため、
すぐに頭をよぎったのだと思います。
PTSDの診断基準は以下の通りです。
【出来事】
1. 危うく死ぬ
2. 重症を負う
3. 性的暴力→生涯有病率は女性の方が高くなる。
*いじめによる無視などは対象外
*6歳以下は単回性のみ(6歳を越える場合は繰り返しの出来事の場合あり)
⇔複雑性PTSD・・・長期反復的な心的外傷の結果生じるPTSD
【手段】
1. 直接体験
2. 目撃
3. 近親者または親しい友人に起こった心的外傷的出来事を耳にする。
4. 心的外傷的出来事の強い不快感を抱く細部に、繰り返しまたは極端に曝露される体験をする(例:災害映像を繰り返し見るTV局社員、遺体に触れる自衛隊員)。
*4は6歳以下には適用されない。
【症状】
1. 再体験(侵入症状)
2. 回避(≠解離)
3. 過覚醒
4. 認知と気分の陰性的変化
の4つともに生じる。
今回の事件を元に一つずつ考えてみたいと思います。
【出来事】について…
1. 危うく死ぬ が該当しそうです。
2. 重症を負う も傷害の程度によっては該当するでしょう。
3. 性的暴力 は報道されていません。
【手段】について…
被害者は1. 直接体験 に該当します。
目撃者も2. 目撃 に該当します。
被害者のご家族やご友人も3. 近親者または親しい友人 に該当します。
4. 心的外傷的出来事の強い不快感を抱く細部に、繰り返しまたは極端に曝露される体験をするは、
事件の生々しい映像は放送されていませんので該当しないと思われます。
【症状】について…
ニュースでは2. 回避(≠解離) が既に報道されていました。
4つに該当しなければPTSDの診断はつきませんが、
後々そうなってしまう可能性はないとは言えません。
【期間】について…
この記事を書いてる段階では1か月以上経っていないので、
PTSDの診断はつきません。
要素を一つずつ確認していくと少なくとも期間の関係で、
現時点ではPTSDと診断されることはないようです。
だからと言って全く安心できることではないですが。。。
ニュースは身体の傷はすぐに報道されますが、
心の傷は人によって異なりますし、あまり詳しく報道されません。
目で見る、耳で聞くよりももっと多くの被害が出ていること、
また、その被害者に寄り添う心理職の方々がいることを、
日々忘れてはいけないと思いました。
加害者の男性は「幸せそうな勝ち組の女性を見ると殺したくなる」と供述していて、
非情に身勝手な理由で憤りを覚えずにはいられません。
それと同時に、加害者の心理状況はどのようなものか、興味関心も湧いてきました。
警視庁は今後、事件の詳しい経緯や動機の解明を進めるとのことです。
健康に生きていてもある日このような事件に巻き込まれ、
精神を病んでしまう恐れがあるということを改めて感じました。
二度と同様の事件が起こらないことを祈るばかりです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。